現在の情勢
現在、農水省の集計によると、全国のスーパーで販売されている。米5キロあたりの平均価格は3月以降、4000円を上回っています。政府備蓄米の放出後も上昇傾向が続いており、現在開会中の国会では、米の価格をいかにして下げるかということが議論されています。
2023年産米は、猛暑による不作やコロナ禍が明けたことによる需要の回復などの要因により、相対取引価格(玄米60kgあたり)は全銘柄平均で15,315円(2024年6月速報値)と、前年度に比べて10%以上上昇しました。
2024年産米は2023年産の需給逼迫状況が継続し、さらに集荷競争が加熱したため、2024年産米の価格はさらに高騰しています。2024年10月までの年産平均価格で23,191円に達しており、これは1993年の「平成の米騒動」の23,607円に次ぐ高値となっています。
石破首相は5月21日に行われた国家基本政策委員会合同審査会(党首討論)において、米の価格について「(5キロあたり)3000円台でなければならない」と明言しました。
また、小泉農水相は5月23日の記者会見において政府が価格を決める随意契約を通じて最近の店頭価格よりも大幅に安い備蓄米を供給するべく「早く届けられるところには2000円台で届けていく」と発言をしました。
しかし、政治家が簡単に2000円や3000円と価格を決めてしまっては、農家の経営が困難になってしまいます。確かに、現在はここ数年に比べて米の価格が高騰し、国民生活を圧迫していると言う現状なので、これをすぐに打開しなければいけません。一方で、急激に米の価格を下げてしまうと、米農家の売上高が減少し、農家所得が圧迫されます。米価が一定水準を下回った場合に、農家の収入を補填する既存の制度である収入減少影響緩和対策(いわゆる「ナラシ対策」)を強化するだけでなく、国民が米を買うことができるようにするための経済支援を拡充させていく必要があります。
「米の価格を下げろ」と農家やJAに迫ったとしても、それは日本の農家がますます弱体化してしまうだけです。米の価格が下がると言う目先の利益だけを追求し、日本の農業を破壊してしまってはいけません。
ましてや、国際市場から米を輸入したり、ミニマムアクセス前の輸入枠を拡大してしまっては、ますます日本の農家が潰れていくだけです。
そもそも、なぜ米の価格がここまで高騰しているのでしょうか。
1つには前述の通り猛暑による不作やコロナ禍が明けたことによる需要の回復などの要因により2023年産米の価格が高騰したことにあります。
しかし、本を正せば、政府による減反政策が招いた結果です。
ということで、戦後、政府(自民党)がいかほどに我が国の農業衰退させてきたか見ていきましょう。
自民党による農業破壊の歴史
1.農地解放〜農地法までの農地改革(1945〜52)
GHQ主導による農地改革は、自作農主義を確立し、小作農を解放しました。この改革によって確立された小規模家族経営と言う構造は、過度の零細農家創出につながり、後の食料自給率や国際競争力の低下、規模拡大の遅れと言う課題につながっています。
2.PL480法(農業貿易開発援助法)と輸入依存構造の形成
1954年に制定されたアメリカのPL480法(農業貿易開発援助法)は、余剰農作物を開発途上国に援助するものでした。
その対象国に日本も当てはまり、アメリカから余剰の農作物が多く流入してくることになりました。例えば小麦で見てみると、対する米輸入量が1955年は89万トン、1965年には341万トンと大幅に増加しました。一方で、国内の麦作面積は、1955年は169万トン、1970年には29万トンと国内生産大幅に縮小することとなりました。政府米販売料に占める輸入小麦比率は30%を超え、日本の農業は、安価な輸入農作物との競合に晒されるようになり、輸入依存構造が形成されるきっかけとなりました。これによって、国内農業の生産構造や価格形成に大きな影響を与え、国内農家の生産、意欲や作付転換に影響を与え、二毛作農業の放棄が進行しました。
3.農業基本法制定と米価支持政策(1961)
1961年に制定された農業基本法(昭和36年法律第127号)は、「農業の近代化」「農業所得の向上」「国内外の農業生産の均衡」などを掲げ、高度経済成長期の農業政策の指針の役割を担いました。
特に米価支持政策は、農家の所得安定に貢献されるとして、自民党の主要な刺激基盤である農村票の獲得につながりました。
しかし、過剰な米生産を招き、政府による高値会議でと備蓄の増大、財政負担の増加と言う問題を引き起こしました。結果として、国際価格との乖離が大きくなり、国際競争力の低下を招きました。また。、大規模経営育成を掲げながら、実際は米価引き下げで零細農家が温存されると言う構造改革の挫折が起こりました。
4.日米繊維協定と農業の犠牲(1971)
1971年の日米繊維協定は、日米間の貿易摩擦を解消するために、日本がアメリカからの繊維製品輸入を制限する代わりに、アメリカが日本の繊維製品輸出を制限するというものでした。この交渉において、アメリカは日本に対し農業分野での譲歩を強く求めました。
また、ニクソンショックに対応し、繊維輸出を制限する見返りに農産物輸入拡大を容認してしまいました。
ちなみに日米繊維交渉はニクソン政権下において、沖縄返還と“バーター取引“でありました。米国政府は沖縄を日本に変換する代わりに1000規制に同意することを求めていたわけであります。(日本側の事情で極秘扱いであったが、米国は公文書で公開)
5.減反政策の本格化(1970s)
米価支持政策による過剰な米生産と財政負担の増大を受け( 1970年には過剰前103万トン発生)、1971年から減反政策が本格化しました。これは農家に対して、米の生産量を抑制するよう奨励し、その代わりに転作作物への補助金等を支給するものでした。
しかし、減反政策によって、農家の作付けの自由度を奪い、経営の硬直化を招きました。また、土地利用効率が低下し、耕作放棄地が1975年に13万haであったものが、2020年では42万haに拡大しています。
加えて、1990年代に行われた10aあたり30,000円の減額補助金が零細農家の離農を阻害し、平均経営規模が1.2haで停滞すると言う国際競争力ある大規模経営への転換を阻害する要因にもなりました。
6.日米牛肉・オレンジ協定(1984)
1980年代に入ると、日米間の貿易摩擦はさらに激化し、特に農作物の輸入自由化が焦点となりました。
1984年の日米牛肉・オレンジ協定は、アメリカからの牛肉とオレンジの輸入を自由化するもので、日本の農家、特に酪農農家や柑橘農家に大きな影響を与えました。この協定は、国内の生産にコスト削減や品質向上を迫る一方で、安価な輸入農作物との競争激化と言う厳しい現実を突きつけました。
データで見てみると、牛肉輸入枠が1984年の6.9万トンから1988年には21.4万トンに拡大し、オレンジ輸入量は1984年の7.3万トンから1991年16.8万トンに倍増しました。また、和牛飼養通数が1985年の280万頭から2000年には170万頭にまで減少。みかん産地の離農率は30%を超えました。
7.ウルグアイ・ラウンド(1986〜1993)
GATT(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンドは農作物貿易の自由化を主要な議題とし、日本も交渉に臨みました。日本は米の輸入自由化に強く反対しましたが、最終的には関税化を拒否し、ミニマムアクセス(最低輸入量の設定)と言う形で、米の輸入を部分的に受け入れることになりました。
この交渉は、日本の「聖域」とされてきて、米の市場開放の扉を叩き、国内農業に大きな衝撃を与えました。そして1995年には輸入前77万トン(国内消費量の約8%)の受け入れを約束しました。
8.WTO農業交渉と直接支払いの導入の遅れ(2000s)
ウルグアイ・ラウンドの後継として設立されたWTO(世界貿易機関)は、農作物貿易のさらなる自由化を推進しました。日本は関税削減や補助金削減圧力を受け、国内農業の構造改革が喫緊の課題となりました。
欧米諸国が導入進めていた直接支払い制度(生産量に連動しない形で、農家に直接補助金を支払う制度)は、市場価格の変動に左右されにくい農家の所得安定に寄与し、国際的な貿易歪曲効果が少ないとされていました。しかし、日本での直接支払いの導入は遅れ、その間の農家の経営安定体質強化への取り組みは十分に進みませんでした。また欧米諸国との政策差としては、食料自給、耕作放棄地面積、大規模農家比率等様々ありました。
9.TPP交渉と農業改革の遅滞(2010s)
2010年代に入り、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉が本格化しました。TPPは、高いレベルの貿易自由化を目指すものであり、日本の農業は再び市場開放の大きな圧力に晒されました。
自民党政権は交渉参加に際し、農業の重要5品目(米、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物)を「聖域」として守る姿勢を示しましたが、最終的には、関税削減や輸入枠の拡大を受け入れることになりました。
また、2013年に農地中間管理機構(農地集積バンク)を創設したものの、2020年時点で集積率は58%にとどまっており、目標の8割には程遠い現状です。加えて、大規模経営への移行不足(日本の平均農地規模は約1.2ha(米:180ha、EU:20〜50ha))や、高齢化(平均年齢は67歳超)と後継者不足も問題となっています